観光スポット PR

茨城県の城めぐり!日本100名城や貴重な個性ある城跡8選

茨城 城跡 城めぐり
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

 

茨城県には日本100名城、続日本100名城にも名を連ねる城があるのはご存じですか?

偕楽園の梅、納豆とかで有名な茨城県ですが、お城や歴史に注目してみると今まで知らなかった魅力を知ることができるんです!

特に城跡は国の史跡に認定されるくらい歴史的にも価値の高い場所が多く、歴史好きな方やお城好きな方も納得の場所が多く存在しています。

茨城に観光で来られた際には、近くの城跡も巡ってみませんか?

今回は、茨城県の国の史跡として残されている城跡、現存している櫓門など歴史ロマンを感じるお城を8つ紹介していきます。




茨城県の城跡1.水戸城(水戸市)

茨城 城跡 水戸城跡 土塁 お堀▲土塁と堀が残る水戸城跡

茨城県水戸市の日本100名城にも選ばれる「水戸城」

徳川御三家の城であり、日本最大級の土造りの城として有名なお城です。

水戸城は那珂川と千波湖に挟まれた台地の先端に築かれ、鎌倉時代に常陸大掾の馬場資幹(ばばすけもと)によって建てられた居館がもとになっています。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」では、水戸も舞台になっていて注目を集めています!

水戸城の歴史

元は平安時代末から鎌倉時代初期に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏、そして佐竹氏の手を経て、慶長14年(1609年)、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となります。頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。しかしこの三階物見は明和元年(1764年)の火災で焼失、後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。
引用:水戸城跡

 

江戸時代には水戸徳川家の拠点として栄えました。

幕末の藩内抗争、明治の廃城令、そして1945年の空襲によって水戸城は大きな損失をしてしまいます。

土塁、お堀が残っていますが、現存する建築物は水戸藩第9代藩主の徳川斉昭が建てた弘道館、薬医門を残すのみとなっています。

薬医門も歴史においてとても貴重な城門です。

水戸城跡は整備計画が進み、水戸学の道沿いにある白壁塀、杉山門、柵町坂下門、大手門、二の丸角櫓が復元されました。

御城印も登場!日本100名城のスタンプは弘道館の料金所にあります。

水戸城跡の散策ルートなどについてはこちらで紹介しています。

弘道館

茨城 城跡 水戸 三の丸 弘道館▲三の丸にある弘道館

水戸城敷地内の「弘道館」は、1841年(天保12年)に徳川斉昭によって三の丸に建てられた文武両道を目指す日本最大級の藩校でした。

武芸一般をはじめ、医学、薬学、天文学、そして精神も学ぶ場所として、当時では最先端の国内最大の学校で全国の藩校建設に多大な影響を与えました。

特別史跡、重要文化財に指定されている弘道館の正庁・至善堂・正門などは見学も可能です。

水戸徳川家のまとまった史料、名刀が見られる「徳川ミュージアム」もおすすめ。

弘道館についてはこちらで詳しく紹介しています。

基本情報

水戸城跡
所在地 〒310-0011
茨城県水戸市三の丸2-9-22
電話番号 029-224-1111(水戸市役所)
アクセス JR常磐線「水戸駅」北口から徒歩約10分
常磐自動車道・水戸ICから車で約30分
北関東自動車道・水戸南ICから車で約15分
ホームページ 水戸市公式ホームページ




茨城県の城跡2.笠間城(笠間市)

茨城 城跡 笠間城

茨城県笠間市にある「笠間城跡」

笠間城は関東でも珍しい石垣を備えた山城として知られています。

鎌倉時代に佐白頂に築かれ、約750年もの間にわたって笠間領主の居城としてあり続けました。

笠間城は佐白山頂に天守曲輪を持ち、山城ですが石垣を備え、自然の地形を活かした城郭として伝えられています。

守りやすく攻め難いお城として評されていました。

笠間城の歴史

笠間城の建築は1219年(承久元年)の鎌倉時代初期。笠間氏の祖となる笠間時朝(かさまときとも)によって16年の歳月をかけ、1235年に完成。

時朝一族が笠間の地を治めていましたが、その後は攻め込まれてしまいます。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、笠間家当主綱家は宗家宇都宮氏の命に逆らい小田原方(北条氏)の味方に付きます。これが原因で、小田原攻めの後に宇都宮氏勢に攻め込まれて笠間城は落城し、笠間氏に代わって宇都宮家家臣の玉生高宗が城主となりました。

その後、慶長3年(1598)に宇都宮城主蒲生秀行の重臣蒲生郷成が3万石で封じられ笠間城に入りました。郷成は阿武山(佐白山の山頂の別称)に重楼(じゅうろう)を建てたと『笠間城記』に記されており、石垣を含む天守曲輪の造営を行ったと考えられます。登城路の整備も玉生・蒲生時代に行われ、城下町の建設も玉生時代に開始されました。こうして、笠間城は近世城郭として生まれ変わりました。引用:笠間市公式ホームページ

 

城跡には掘跡、石垣、「佐志能神社(さしのう)」が残されています。(2011年の東日本大震災により一部崩落)

石垣の一部解体といった仮修復が行なわれたものの、天主付近は2020年現在も立入禁止区域に。

(立ち入り禁止区域については笠間市公式ホームページより確認できます。)

 

石垣、天主曲輪は、笠間城の面影を残す遺構として現存し、象徴にもなっています。

笠間城は史跡として価値があるということで、考古学や城郭史の専門家によって次代に笠間城の歴史を残すための活動も活発です。

佐白山の笠間城や続日本100名城スタンプの設置場所についてはこちら。

基本情報

笠間城
所在地 〒309-1611
茨城県笠間市笠間3616
電話番号 0296-77-1101
(生涯学習課 文化振興室)
アクセス JR水戸線「笠間駅」より徒歩約25分
北関東自動車道友部ICより車で約11分
北関東自動車道笠間西ICより車で約16分

 

茨城県の城跡3.土浦城(土浦市)

茨城 城跡 土浦城

茨城県土浦市にある「土浦城」は、日本城郭協会から「続日本100名城」に認定されている城跡です。

現在、本丸と二の丸跡が亀城公園になっています。(二の丸跡に土浦市立博物館)

現存する「櫓門」は亀城公園のシンボル、桜の名所として地元で親しまれています。

土浦城の歴史

平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。引用:wikipedia

 

土浦城は室町時代後期に築城されたお城で、いくつもの掘に囲まれた本丸は度々水害に遭うものの水没することがなく、池の浮かぶ亀のように見えたことから「亀城(きじょう)」とも呼ばれていました。

現在の亀城公園の名前の由来もつながりましたね。

1685年(貞享2年)、松平信興によって近世城郭の姿に改修されました。

明治維新後に土浦城内の建築物はほとんど破壊され、後に火災や天災など災害に遭い破損してしまいました。

現在亀山公園にある西と東の櫓は、それぞれ1990年代に復元され、かつての面影を取り戻しています。

 

現存している櫓門は関東唯一のもの。

その歴史的価値も高く評価され、土浦市の文化財に指定されています。

かつては土浦城本丸を中心に「の」の字を描くように上級藩士、中下級藩士の武家地、町人の居住地が配置されていました。

その構造は江戸城を中心とした江戸の町作りに似ていたので、土浦は小江戸とも呼ばれていたそうです。

小江戸と呼ばれた土浦の街並みは現在も残されています。こちらでその様子も紹介しています。

続日本100名城のスタンプの設置場所は、「土浦城東櫓」(博物館の付属展示館)に設置され、休館日(月曜日、祝日の翌日)は、土浦市観光協会「まちかど蔵大徳」でスタンプを押すことができます。

基本情報

土浦城
所在地 〒300-0043
茨城県土浦市中央1-13(亀城公園)
アクセス JR常磐線「土浦駅」西口から徒歩約15分
常磐自動車道桜土浦IC及び土浦北ICから車で約15分
ホームページ 土浦市公式ホームページ




茨城県の城跡4.逆井城(坂東市)

茨城 城跡 逆井城 坂東市▲逆井城の橋と門

茨城県坂東市にある「逆井城」は、茨城県の文化財として指定されているお城です。

「逆井城跡公園」になっており、広い芝生や森林の中で遊んだり、バーベキューができる場所にもなっています。

逆井城の歴史

逆井城は今から400年以上前の戦国時代末期(1577年)に後北条氏の北関東進出拠点として築城されました。1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼしたため、逆井城も廃城になりましたが、現在もその外堀と土塁が残っています。引用:坂東市

 

外堀や土塁などは現存しているので、その面影を留めています。

逆井城は、常陸佐竹氏、結城氏、多賀谷氏など有力武家の領地と隣り合わせにあり、さらに飯沼が北側にあったため地の利を活かした堅城でした。

 

北条氏滅亡後、逆井城は廃城しましたが土塁や外堀などは現存しています。

主殿は逆井城と同時代の大台城跡で発掘調査を参考に復元されたものになっています。

正面から右や主室(縦3間・横3間)、左側が控え室という九間の間(ここのま)と呼ばれる室町時代中期の主室建築特有の造りです。

櫓門や橋などの建築物も再現され、かつての堅牢と名高い城の面影を見ることができます。

 

茨城 城跡 逆井城 枯山水庭園

現在は、「逆井城跡公園」なので休日はスポーツをしたり、子どもが遊んだり、バーベキュー、散策などが楽しめる公園として地元の人たちからも親しまれています。

主殿前には枯山水庭園も広がっていて、見どころもあるだけでなく、それでいて静寂な空気を体感することもできますよ。

戦国時代の様式が再現されているので、タイムスリップしたかのような気分になれる公園です。

基本情報

逆井城
所在地 〒306-0501 茨城県坂東市逆井1262
電話番号 0280-88-0835
アクセス 常磐自動車道谷和原ICから常総市、坂東市方面へ車で約1時間
ホームページ 坂東市観光協会

 

茨城県の城跡5.小田城(つくば市)

茨城 城跡 小田城跡 つくば市 堀

茨城県つくば市にある「小田城」は、鎌倉時代から戦国時代まで常陸を支配していた小田氏の居城です。

現在は国指定の史跡としてかつての小田氏、小田城を伝えています。

小田城の歴史

小田城の歴史の始まりは鎌倉時代です。

当時、小田氏の祖である「八田知家」(はったともいえ)が常陸国の守護職(しゅごしょく)として就き、常陸の土地に小田城を築きました。

 

その後、南北朝期には、当主・小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。

下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げられる。引用:wikipedia

 

その後、15代に渡り小田氏は城主としてあり続けたものの、戦国時代に上杉謙信による攻撃で敗退してしまいます。

上杉謙信が小田城から立ち去ったあとに、一度は奪還しますが佐竹氏(上杉側)、多賀谷氏の両家に攻められ敗北。(手這坂の戦い)

 

以後、小田氏は佐竹氏の配下に付くと同時に、筑波に威容を示した小田城は廃城となった。

小田城案内所・遺構復元広場

小田城跡敷地内には、小田城案内所・遺構復元広場があります。

小田城のジオラマ、歴史絵風の展示などから、茨城県南部の最大勢力であった小田氏や小田城について知ることができるので、鎌倉時代から戦国時代の小田氏の歴史への理解を深めたい方におすすめ!

10月には遺構復元広場で「小田大護摩法要と小田城秋の陣」が行なわれます。

基本情報

小田城
所在地 〒300-4223 茨城県つくば市小田2532-2
電話番号 029-867-4070
アクセス つくばエクスプレスつくば駅から「つくバス」小田シャトルで「小田東部」下車。徒歩約5分
ホームページ つくば市




茨城県の城跡6.古河城(古河市)

茨城県古河市の「古河城」は、関東有数の城郭として知られています。

 

南北1800m、東西は堀幅を含めて450~550m、南北105m、東西150mほどの出城「諏訪曲輪(すわくるわ)」も含まれる広大な規模を誇ります。

 

かつては将軍家の日光社参などで宿泊城として利用されていたそう。

北関東においても重要な役割があったお城です。

古河城の歴史

古河城の創建時期は明らかにされておりませんが、史料では15世紀中期、鎌倉公方(かまくらくぼう)である「足利成氏」(あしかがしげうじ)が、鎌倉から古河に座を移した時期あたりと言われています。

 

史料のなかに古河城という表記がみえることから、この時期に従来の陣から城としての整備がおこなわれたとみられています。
その後、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康の関東入部にともない古河城には徳川の譜代大名小笠原氏が入部し城の再建に勤めました。江戸期を通して11家が12回にわたって入れ替わり在城しています。江戸初期の歴代城主は数万石でしたが、奥平家の11万石・永井家の7万石を経て城下も拡張整備され、さらに土井利勝の16万石時代には本丸に御三階櫓が建造され城下の形が整ったとみられます。引用:こがナビ

 

このようにして、関東でも有数の規模を誇る広大な城郭が作られました。

 

明治時代1873年(明治6年)に廃城令が施行され、古河城も翌年解体。一部が民間に手に。

 

1910年(明治43年)には渡良瀬川の河川改修により中世から続いた古城も損壊。

かつての姿は1870年(明治3年)に武藤松庵(むとうしょうあん)によって撮影された数枚の写真でのみでその姿の面影を知ることができます。

 

古河城には天守閣を始めとする主要な建造物はほとんど現存しておりません。

  • 「諏訪曲輪」
  • 「古河城獅子ヶ崎土塁」
  • 「古河城追手門跡」
  • 「福法寺山門」

からその面影をうかがい知ることができます

基本情報

古河城
所在地 〒306-0036
茨城県古河市桜町13−20
アクセス JR宇都宮線「古河駅」から徒歩約10分
東北自動車道館林ICから車で約15分
ホームページ こがナビ

 

茨城県の城跡7.大宝城跡(下妻市)

茨城県下妻市の「大宝城跡」は、平安時代から南北朝にかけて存在した城郭跡になります。

平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。引用:下妻市

 

東西288m、南北576mの城郭だったそうです。

大宝城の歴史

1341年(暦応4年)には、南朝側の公家・春日中将顕国(かすがちゅうしょうあきくに)が興良親王(おきよししんのう)を奉じ、小田城から大宝城へと拠点を移しました。

  • つくば市の小田城
  • 関城町の関城
  • 下妻市の駒城

3つの城がともに東国における南朝方の重要な拠点となっていました。

その中で大宝城は、自然を活かした重要な戦略拠点として扱われていたようです。

しかし、1343年(康永2年)に北朝側の猛攻を立て続けに受けわずか2年で落城。

大宝城跡には、大宝八幡宮が建てられ、大宝城の空堀や土塁が残されています。

大宝城の土塁を守るために、大宝八幡宮ではあじさいを植えていました。

今では「あじさい神苑」と名付けられ、あじさいの名所としても知られ多くの方が足を運んでいます。(6月にはあじさい祭りも行われます。)

 

大宝八幡宮の境内にてかつての面影を垣間見ることができます。

八幡宮裏には大宝城主である下妻政泰(しもづままさやす)の二つの碑も建てられたりしているので、大宝八幡宮へ参拝と合わせて城跡巡りをしてみてはいかがでしょうか。

あやかりたいご利益がありますよ!

基本情報

大宝城跡
所在地 〒304-0022
茨城県下妻市大宝667
電話番号 0296-44-3756
アクセス 関東鉄道常総線「大宝駅」から徒歩で約3分
ホームページ 下妻市公式ホームページ

 

茨城県の城跡8.真壁城(桜川市)

茨城県桜川市の「真壁城」は、平安時代末から戦国時代にかけて、この辺りを支配していた真壁氏の居城として知られるお城。

山裾の微高地を利用し造られた平城で、戦国時代に造成されたと思われる四重の堀や土塁が良好な状態で残されています。平成6年に12.5ヘクタールが国指定史跡となり、中世の遺構を今に伝える貴重な城郭となっています。引用:桜川市公式ホームページ

 

最初は方形の館でしたが、その後にいくつかの増改築などが続けられ広大な規模を誇る城郭になりました。

真壁城の歴史

真壁城は、17代城主・真壁久幹(まかべひさもと)の時代に整備され、息子・真壁氏幹(うじもと)、孫の真壁房幹(ふさもと)の代まで居城として使われていた。

 

房幹の時代に起きた関ケ原の戦い後の1602年(慶長7年)、佐竹家臣団化としていた真壁氏も秋田角館へ移ったことで真壁城は空城となり、およそ400年の真壁氏による支配の歴史は幕を閉じました。

 

真壁城跡では発掘調査が行なわれ、かわらけ(素焼きの陶器)などの出土品や堀といった遺構の成果に基づき、土塁や園路などの整備が行なわれています。

 

真壁城跡には建築物がほとんど残っておらず、戦国時代後半の姿が見学できます。

 

戦国時代に作られた四重の堀と土塁は当時のまま現存しています。

 

本丸にある国指定の記念碑脇にパンフレットも置いてあるので、見学の祭には活用してみてください。

基本情報

真壁城
所在地 〒300-4407
桜川市真壁町古城
アクセス JR水戸線「岩瀬駅」よりタクシーで約20分
桜川筑西ICより車で約20分
北関東自動車道笠間西ICより車で約16分
ホームページ 桜川市




茨城県に残る城跡から知る歴史

茨城県には現在も大切に残されている各地の城跡。

お城や歴史に注目してみると今まで知らなかった魅力を知ることができます!

それぞれの城跡で特徴などが異なり、茨城にもこんな歴史があったのかと、歴史に疎い私でもとても興味深いものでした。

茨城観光のプランの1つに入れても面白いですし、日本100名城のスタンプ集めをしてみるのも面白いのではないでしょうか。

まず、「水戸城跡」に訪れてみてはいかがでしょうか?(地元推し!)